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あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

チェ・ゲバラ(4):南米の旅が「チェ・ゲバラ」と化す旅に

25歳、2度目の南米の旅こそ、「チェ・ゲバラ」と化す旅となる

 


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チェ・ゲバラ(3)から:

ペルーに入ったエルネストはチチカカ湖畔を抜けて目的地の一つクスコに入りました。クスコはエルネストが少年の頃から夢想してきた古えのインカ帝国が栄えた場所です。

そして今では世界遺産となった空中都市マチュピチュに圧倒され、心を揺さぶられます。同時に、この地の先住民に対する酷い人種差別と虐待を目撃しています。こうした一つ一つの体験が後の「チェ・ゲバラ」を誕生させるのです。


ペルーの首都リマでは予定地の一つだったハンセン病院に立ち寄っています(マルクス主義者でもあったハンセン病院の医師は2人をあたたかく迎え入れ、病院で宿泊し食事を摂れるようもてなしている)。

 

エルネストはその病院で看護婦とかなりいい関係になりますが、振り切るようにアマゾンに向かいます。アマゾンといってもかなりの上流ですが、険しい山岳とジャングルがエルネストたちを苦しめます。何度も喘息の発作にみまわれアドレナリン注射がかかせない状態だったようです。ハンセン病院があるプカルパの町は、ジャングルの中にありましたが、エルネストは診察だけでなく釣りをしたり患者とサッカーをして楽しんでいます。

エルネストはアマゾンで24歳をむかえます。アマゾン川を泳ぎ渡り(流れをよんで泳ぐと片道だけで4キロにもなる)、少年の頃のような危険をかえりみない行動で皆の度肝を抜いています。そして「マンボ=タンゴ号」という筏(ハンセン病患者たちがつくってくれた)で3日間アマゾン川を下ります。


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【青年期:旅でのTopics】

エルネストは、アマゾン川を下っていく途中、コロンビアに入国。そこでスポーツの才能があることを知らしめサッカークラブの臨時コーチに。またコロンビアの歴史や地理、政治、農民の状況などをおさえるため勉強し情報を蓄積。コロンビアでもマラリア関係の病院に出向き、病院内の部屋を寝床にして日々を過ごす。

一転、軍の輸送機でコロンビアの首都ボゴタへ向った折り、手持ちナイフ(旅人には必要なもの)を理由に一方的に逮捕されるが、釈放されると再びサッカーの試合を観て楽しんだりしている。エルネストの日々も不思議に満ちているが、南米各地の状況も不安定でありながらどこか楽天さも感じられる。続くベネズエラへ入国した時は、物価の高さや貧富の格差、首都カラカス周辺の日干しレンガ造りの粗末な小屋に驚いている。

ベネズエラでもハンセン病院で少しの仕事をえているが、資格の問題でどの病院でも仕事は限られたため、アルゼンチンに戻ったのち医学部を卒業しておこうと考えるようになった。

 

ベネズエラには馬の輸送の代理業者をやっている父の親類がいて、エルネストはその親類と同行しブエノスアイレスに戻ることになります。乗り換え空港の米国マイアミで飛行機故障から20日足止めをくらいますが、この時の米国での経験もエルネストを刺激し影響を与えたようです。UPIの記者と口論になり「僕はアメリカの百万長者よりも、文盲のインディオの方が好きだ」と激しく言い返したのもこの頃でした。


8カ月にわたる最初の流浪の旅のあと、2年間をつぎの本当の「旅」の準備にあてる


「このアメリカ大陸の流浪は僕を考えていた以上に変えた」。8カ月の旅からアルゼンチンに戻ったエルネストの「マインド・ツリー(心の樹)」は、著しく逞しく成長しました。エルネストの胸のうちに確実に明確な「マインド・イメージ」が描きはじめられます。その「マインド・イメージ」には、武器を手にしている自分の姿が映し出されていました。近い将来、政治問題がエルネストの行動の射程範囲に入ってくることを予感しはじめたのはこの旅の後だったようです。ノートにはインディオら人民を搾取する者たちへの怒りから「僕は人民のために生きるだろう」と記しています。


エルネストは「旅行メモ」をまとめると、国立図書館に日々通い勉強しだします。旅から学んだことを実践し準備するためで、今後南米各地で活動をする時の資格を取得するためでした。この時期、幾つもの試験を受けていたのも、大学でアレルギーに関する研究を発表したのも、近い将来の活動を予測してのことでした。また旅の最後で別れたグラナードが働いているベネズエラハンセン病院で勤務することを考えての判断でもありました。

 

 

こうしてエルネストは近い将来の自分を自らの「マインド・イメージ」に映しだしていたのです。その「マインド・イメージ」に自己像を近づけるための準備を、エルネストはおよそ2年間余で集中的におこなっています。つぎの南米大陸への「旅」は、まさに人生を賭しての「旅」となることをエルネストは感じていたのです。次の旅が近づいた時、エルネストは恋人チチーナと別れています。

ゲバラ家の家族もそれを感じとり、2度目のエルネストの旅には複雑なものを感じていたようです。しかし、エルネストは再び旅発ちました。生まれ故郷のアルゼンチンから、”根っ子”をすべてひっこ抜き、南米大陸の奥深くに向っていきました。

 

 


25歳、2度目の南米の旅こそ、

チェ・ゲバラ」と化す旅となる


「われこそはアメリカ大陸の兵士なり!」。

こう叫んで、友人カルロス・フェレールとともに再び旅立ったのは、25歳の時(1953年)でした。ポケットには700ドル。この時はまずは電車の二等車に乗り、3000キロを一気に駆け抜けボリビアに入国しています。

ボリビアでは、農地改革や労働者による軍部への銃撃戦の情報(2000人が犠牲者に)、そして社会状況を冷静に観察します。エルネストはこの時、ボリビアの民族革命運動の詳細な動きと、3つの派閥の様子をも把握しはじめています。また弁護士のリカルド・ロホと農事省を訪問し状況の説明を受けたり、政権や各派、農民の状況と変化をかなり詳細な情報を入手していきます。

このことを知れば、ゲバラが最後に命を落とすことになったボリビアが、彼にとって唐突な戦場でなかったことがよくわかるはずです(後に3つの派閥のリーダーに会うことになるのですから)。

 


しかし、20代半ばにしてこの「状況」(同じ南米でありながらも他国である)への入り込み様は、当時の時代精神が反映していたとはいえ、やはり凄いものがあります。「われこそはアメリカ大陸の兵士なり!」という、旅立ちの言葉が軽く吐いた言葉でないことがわかってきます。


こうした政治状況への突っ込みがあったかとおもえば、エルネストは再びティウァナコ遺跡やチチカカ湖のイスラ・デル・ソルへとむかっていて、エルネスト・ゲバラという人間の面白さ、興味深さを伝えてくれます。

この時「探検家としての最も貴重な願望の一つを実現した。先住民の墓の中で小指程の大きさの女性の像を見つけた」記しています。エルネストは一方で依然「探検家」でもあったのです。


つづいてボリビアからペルーへはトラックの後ろに先住民にまじって移動。そして2年前と同じように再びクスコ、そしてマチュピチュ遺跡へ。エルネストは最初の旅の後、考古学の勉強もしていました。

 

 

「いくら感激しても足りない。僕が想像しうるもっとも素晴らしい光景の一つ」と感嘆し、2度目でも飽くことなく遺跡を見てまわっています。写真も撮り、後に遺跡について「石の不思議」という論文を著します。

エルネストに半端でない考古学者としての側面があることは、エルネストを森の奥へ、南米文化の源流へと誘い込んだでしょう。その結果、古(いにしえ)の驚嘆すべき文化を生み出した者たちの末裔のインディオたちや、”大地に根ざした”農民たちの現状を直に知ることになり、エルネストの活動の大きな動機の一つになったことは間違いありません。


ボリビアで出会った弁護士のリカルド・ロホは、エルネストの考古学狂いについていけず一人先に移動してしまいます。エルネストは独り、ペルーのリマを抜け、つづいてエクアドルベネズエラ(前の旅で同行しハンセン病院で働いているグラナードには知人に「グアテマラへ行く」という手紙を渡し知らせている)、パナマコスタリカへ。

 

 

コスタリカではキューバ人亡命者と出会い、若き弁護士フィデル・カストロのことをはじめて聞いています。またコスタリカ共産主義労働組合の指導者や政治亡命者たちにも出会っています。南米の果実を囲いだしていた米国のユナイテッド・フルーツ社への嫌悪を感じ、亡きスターリンの肖像に誓いをたてたのもこの地でした。そしてニカラグアへ入国し、さらに目的地としたグアテマラに向かいます。

 

1953年12月、グアテマラに入国。グアテマラではハコボ・アルベンスによる人民主義的政権が米国企業の独占的支配に矢を放っていた時でした。落ち着き場所と寝場所を探している間に、弁護士のリカルド・ロホにすすめられ、亡命ペルー人の女性イルダ・ガデーア(祖母はインディオ)と出会います。イルダはアメリカ革命人民同盟に属する活動家でしたが、グアテマラでは農業共同組合や農民を助成する産業振興局で働いていました。このイルダとの仲は知的な恋人に発展していくことになります。

 

 

2人ともキップリングの『イッフ』のファンで、サルトルマルクス主義についても語らうことができました。イルダも本好きでした。イルダはエルネストにホイットマンやレオン・フェリーペ、そして毛沢東の本を貸し、エルネストはファリャスの『マミータ・ユナイ』やクルシオ・マラパルテの『皮膚』のことを話して返します。

 

2人は波長があいました。イルダとともに民主青年同盟との関係は深まりますが、エルネストはしょっちゅう職探ししています。グアテマラでの滞在は徐々に長引くものの、グアテマラ医師会の圧力が強く(アルゼンチンで取得した資格が効かない)、病院で働くことができなかったため困窮しはじめたためです。ただいつものように時間があれば絶えず読書もし、寝袋の中で寝れば古代マヤの本『ポポル・ブフ』は手放せませんでした。

 

チェ 28歳の革命

チェ 28歳の革命

  • ベニチオ・デルトロ
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経済的には困窮するものの、グアテマラは中米のなかで最も民主主義が根づき外国人とも協力しようという空気がありました。キューバ人亡命者ニコ・ロペスらとも出会うなか、いよいよキューバの状況を詳しく知るようになっていきます。ビザの期限のためいったんエルサドバドルへと徒歩とヒッチハイクで出国し、国境で何冊かの本を押収されています。


アメリカ大陸は、考えていた以上にずっと重要な性格をもった冒険の舞台となる」と、エルネストはさらに認識を深めます。エルネストの「マインド・ツリー」は、いまや<南米>と<中央アメリカ>そのものを土壌として”根”を張り、深く濃いジャングルの中、空中楼閣の「マチュピチュ」のごとく、「マインド・ツリー」の頂にあるエルネストの「眼」は空中高きところから、遠き南米の歴史を感受し、沸き立つ南米の”今”を目撃するのでした。