チェ・ゲバラ(3): モーターサイクルで南米の旅に
モーターサイクルで南米の旅に
「冒険」や「旅」の本で埋まった本棚、
「一般書ABC順読書ノート」
チェ・ゲバラ(2)から続く:
第二次世界大戦がはじまった時、エルネストは12歳でした。父はアルゼンチン・アクションという組織に加わり、その時エルネストも少年ながら会員証をもらっています。友だちには自慢の会員証だったようです。実際、ある地区に住むドイツ人のなかにナチスが入りこんでいないか調査したそうです。
それよりもこの頃、エルネストが熱心だったのは、継続的な「読書」でした。エルネストの本棚は「冒険」や「旅」の本でいっぱいでした。「一般書ABC順読書ノート」という独自のノートに、読んだ本に一言コメントを付けABC順にリストにしていくのです。そうした継続的な読書術によって、エルネストは12歳の時、すでに18歳のくらいの教養を身につけていたんだと、父は語っています。
14歳の時、上流階級が通う学校に進まず、自由な校風で知られたコルドバのデアン・フネス学院(公立)に入学します。学校まで毎日片道だけでも35キロの列車通学でした。この年、はじめて労働してお金をもらっています。葡萄園で葡萄の収穫のアルバイトでした。また民族主義的な青年政治活動に参加したり、スポーツにも熱がはいりはじめます。
エルネストはサッカーや多くのスポーツを愛好していましたが、とりわけラグビーが大好きでした。喘息はもちろん治っていません。酸素吸入器をグラウンド脇に置き、運動中に喘息をおこすと自分で酸素吸入器を使用していました。とにかく素晴らしいプレイヤーだったようです。激しいスポーツをした後、友だちと家に帰ると、父親の蔵書を皆で借りて読んだりしていたようです。仲間うちではゲバラが一番本を読んでいたと評判でした。
翌年、妹も遠くのコルドバの学校に入学することになったため、ゲバラ家はコルドバの郊外の一軒家に引っ越し、父は市の中心部に事務所を構えました(地元の建築家とともに事業)。
エルネストはこの頃、文学をよく読んでいます。ボードレール、マラルメ、ベルレーヌ、ロルカ、アンロニオ・マチャード、スタインベックの『怒りの葡萄』。それにネルーダやスペインの詩人たち。文学以外では、マルクスにエンゲルスです。そしてガンジーを「発見」しています。
ガンジーの作品はそらんじるほどに読み込んでいます。初恋の人、従妹のラ・ネグリータにネルーダの『20の愛の詩と絶望の歌一編』のかなりの量の詩を全部口ずさんで驚かせていますから、記憶力も抜群だったようです。
音楽音痴で、ダンスもできなかったエルネスト
逆にエルネストはタンゴの国アルゼンチン人なのにまったく音楽音痴で、タンゴとポピュラー音楽の区別すらできなかったといいます。そういうアルゼンチン人もいるのかと日本人として驚きますが、アルゼンチンの大作家ボルヘスもほぼ音楽知らずだったそうですから、少年の頃から何かに深く囚われだした人にとって優先順位は低かったのでしょう。
音楽音痴にとってダンスは難関で、タンゴを聴き分けなければリズムをとって踊ることなどできません。エルネストはダンスはちょっとしたステップしかできなかったようです。それでもダンスに行くと、エルネストは踊れない人がいるといけないといって一番醜い女の子を誘っていた、とにかく自分よりもそういう人を気づかう人だったと、従妹のラ・ネグリータは記憶しています。
【青年期:Topics】
喘息によくなかったためエルネストは冷水が苦手だった。そのため生涯、風呂やシャワー嫌いが続きます。長旅やゲリラ活動にはプラスでしたが。まだこの頃は具体的な政治活動には興味をもっていません。青年期には社会的な関心はなく、生涯にわたってアルゼンチンでは政治闘争にも学生運動にもまったくかかわっていないのです(友人だった学生運動指導者が警察に弾圧された時だけ少し加わった程度)。
「スペイン内戦」の裏庭での疑似体験は、ずっと潜在していたのでしょうが、文学や哲学への関心が政治的なものへの関心を圧倒的に上回っていたのです。15歳の時の学業は、文学・哲学が「優」/英語・音楽は「不可」/歴史は「良」/苦手の数学と博物学は「可」だった。
16歳の時、体系的に読書し、考えを記録するため、「一般書ABC順読書ノート」に加え、2年間にわたって自前の「哲学辞書」をつくり続けます。エルネストは<カオス的な人間>だったのに、「読書」に関してだけは秩序だてきっちり整理しつつ前にすすんでいっています。読書記録に自ら「注」を付け、さらにはその「注」の「注」を付けて整理するといった念の入れようでした。
祖母が脳溢血になり半身不随に。工学を捨て、医学へ
ペロンが大統領就任した18歳(1946)の時、兵役に応募したエルネストは喘息で不合格になっています。この年、大学入学に際して、情熱を注いできた文学や哲学の方面でなく、工学を学ぼうと工学部に入学しています(10代半ば過ぎから一転数学が一番得意な科目に)。道路研究所の現場実習生として午前中働き、午後に勉強、路面の専門家となっって街の道路や公共施設建設のためのプロジェクトで働きだします。
すでにこの頃、政治や金銭面での潔癖さがあらわれています。建設業界は賄賂が日常茶飯事で、食事の接待もしょっちゅうでした。全員が少なくとも食事の接待を受けるなか、エルネストだけは受けませんでした。この頃、少年の頃から大きな影響を受けてきたガンジーが暗殺されていて、その意志を貫こうとしたにちがいありません。
またこの年、祖母アナが脳溢血になり半身不随になります。亡くなるまでの17日をつきっきりで面倒をみ食事の世話をしています。祖母の病気の苦しみと自分の喘息の経験から、工学でなく医学を勉強しようと決心します。
医科大学入学。23歳の時、友人と南米への長い旅
19歳、ブレノスアイレス医科大学に入学。同時に市役所やアレルギー研究所で働きはじめます。在学中に両親は離婚。22歳の時(1950年)、モーター付自転車で北部アルゼンチンを単独走破します。そして翌年、ゲバラの人生を語る上で最もよく知られるモーターバイクによる南米大陸旅行を、年上の友人グラナードとともに敢行します。先住民族インディオたちの純粋な心や暮らし、その土地はエルネストを魅了します。
バイクの方は転倒したり故障続き、有り金もあっという間になくなってしまいます。この時グラナードは、エルネストは寝袋さえあればどこででも転がって寝れることに驚いています(後の人生においてこの図太さは大いにプラスに働く)。
バイクを諦め、パブロ・ネルーダの「第三の住処」を口づさみながら徒歩とヒッチハイクでの移動に。イースター島へ渡る計画は船がすぐ出なかったため、代わりにチリに向かう船に隠れて乗り込んでいます(途中発覚)。チリの鉱山地帯では労働搾取の酷さを肌で感じとっています。そこで共産主義の労働者と知り合っています。この時点で3500キロを踏破し、疲れはピークに達していました。しかしエルネストはどうしてもその目で見ておきたいものがあったのです。
インカ帝国遺跡、マチュピチュ。ゲバラには考古学者の感性があった
エルネストがどうしても見たいもの。それはクスコのインカ帝国遺跡であり、今や世界遺産となっているマチュピチュでした。エルネストには考古学者の才があったのです。こうしてみると、ゲバラは、文学や哲学、数学に工学だけでなく、さらには医学や考古学と、そのすべてに関心を持ちつづけ、食いついたら一気に深めていける「資質」があったと思うしかありません。
文学、哲学や数学、医学などかなり突っ込んで学んでいれば、その道を極め専門家になろうとする人が多いなか、エルネストの前には見通しがきく舗装されたような安全な道はありませんでした(最後はジャングルです)。思い起こせば、エルネスト少年の書棚の多くは、「旅」と「冒険」の本でした。
最初の頃はインカ帝国遺跡への思いもその延長にあったでしょう。そして「文学」や「哲学」は、「旅」と「冒険」をさらに豊穣に、意味あるものへと深化していったはずです。そして「工学」の後、青年期の最後に「医学」の道に入ったわけです。
「旅」の中の医師という職業
「医学」を志したことで、「旅」と「冒険」が思わぬかたちで継続させることができるようになりました。南米の数カ所の病院に知り合いもでき、現地まで辿りつけば働き口や幾らかの報酬を得ることも一時的ではありましたが可能になったのです。
エルネストも、旅を愛する人間にとって医師という職業は、またとない職業だと語っています。そして長い旅のなかで多くの出会いと体験を積み重ねていきます。搾取されるインディオたちの現状や、その原因としての各国の権力構造や土地・農業政策への関心、さらに各地で出会う亡命者たち。
こうしてチェ・ゲバラの「マインド・ツリー(心の樹)は」、モーターサイクルにのって、南米の空と土地、その「光」と「闇」を一身に浴びながら、さらに樹勢をつけていくのでした。これほどの大陸を移動し、現地と混じり会い、鍛えられ、途上で学習し、思考し、行動し、可能性が芽吹いていった「マインド・ツリー(心の樹)」は、そう多くはないはずです。そして時代や環境、関心も方法まったく異なりながらも、ゲバラの<魂の成長>から刺激を大いに受けるはずです。
まずは一緒に、ゲバラの「旅」を感じてみましょう。ゲバラの南米への長い旅(2度目は帰郷しません)は2度おこなわれます。今、一緒に辿っている「旅」は1度目の「旅」です。
チェ・ゲバラ(4)へ続く: