伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

ロンドンの伝説のブティック「BIBA」を創業者したのは、ポーランド生まれのエルサレム育ちだった一人の女性だった。中東問題で暗殺された父。少女バーバラは人形遊びよりもお店ごっこをするのが大好きだった


BIBAをつくった女 バーバラ・フラニッキ自伝 (P-Vine BOOks)

「スウィンギング・ロンドン」時代の流行の発信地であり伝説のブティックとなった「BIBA」。創業者のバーバラ・フラニッキの名前を知らなくても60s、70sファッション好きな人なら、「BIBA」の名前を知らずに通ることはないでしょう。当時、青春を送った日本女性もロンドンへ行く機会があれば皆こぞってブティックに繰り出し、女性誌には「BIBA」の名前がおどり日本のブランドも影響を受けないではおられない存在でした。またその影響はロンドン育ちの女性たちにとっても同じで、実際に後に『Vogue』の編集長とし君臨しているアナ・ウィンターも、「BIBA」の虜になり高校をすぱっと辞め、スタッフとなって働きだしています。
「スウィンギング・ロンドン」のファッション・イメージの一翼をになったバーバラ・フラニッキがロンドン生まれかといえば、12歳にはじめて英国にやってきたポーランド人です。2歳の時に父が中東のポーランド領事館となったため一家でエルサレムに行き、幼少期から少女時代を中東で過ごしています。父の主な役割は貧しいユダヤ人やユダヤポーランド人がパレスチナへと出国したいと希望した者に福利厚生を監督したり、YMCA1855年赤十字創始者アンリ・デュナンの呼びかけで労働者の精神的。肉体的な憩いの場としてつくられたキリスト教系団体)の主幹として大量虐殺をくぐり抜けてきたポーランド人の子供の世話をしています。父はアラブ側とユダヤシオニスト側双方にコネクションをもち、パレスチナ分割案について国連の仲介役を果たすことに。が、ベギン率いるシオニストの過激派によって暗殺されてしまいます(1948年、バーバラ12歳の時)
さて、バーバラはエルサレムに住んでいた子供の時のことを次の様に回想しています。

「私はいつもショップというものに魅了されていた。モノを使っていろいろな風にアレンジしてだらだら時間を過ごすのが楽しかった。子供の頃はエルサレムで近所の角にある店に行くのが大好きだった。食料品は十分にはなかったが、経営者のカップルは、大理石の厚い板の上にチーズをディスプレイするのが得意で、チーズには網状の傘のようなカバーをかけてあり、青いビーズが飾ってあった……私はお人形ごっこよりお店屋さんごっこのほうが好きだった」(『バーバラ・フラニッキ自伝ーBIBAをつくった女』P-Vine Books p124)


1964年、28歳のバーバラは、膨大な注文とその一方で返品の山を見ながら、服を見せる場所ーshopーをもつアイデアに夢中になっていきます。店を中心に生活が回ることに反対した夫に内緒で、住んでいたフラットのあちこちに服をディスプレイし、プレスや友人にセールの電話をかけると皆が友達を連れてきてごった返します。手応えをえたバーバラはケンジントンにあるペンキの剥げ落ち朽ち果てていたものの素敵な建物を見つけ(何年も前に薬局が閉店した建物だった。当時その界隈は老婦人しか買い物をしない様な場所になっていた)、夫も賛成し契約します(2人はまだ前の仕事をしたままだった)。
「BIBA」のロゴのカラーイメージは、閉店した薬局の看板から頂いたものでした。そして店内の床は、バーバラが観たばかりの『イワン雷帝』(監督エイゼンシュタイン)に登場する故国ポーランドの宮廷のシーンから、黒と白のタイルでできた床のイメージに仕立てたのでした。そしてビートルズサウンド。バーバラは子供の頃の念願が叶い、またショップの人気に火がつきますが、そこまでに至るには予想もしえない紆余曲折がありました。
Biba: The Biba Experience

3歳の時、故郷ポーランドに祖父母に会いにいったん帰国していますが、その直後ヒットラーポーランド侵攻、叔父たちは強制収容所へ送られ、叔母の一人も数年間アウシュビッツに収容されています。服装の好き嫌いがはっきりしだし服にうるさくなったのは6歳の頃。母はいつも美しく着飾っていましたが、戦争がはじまり母だけがテクニカラーの映画の世界にいるようでそのゴージャスすぎる姿に罪悪感を感じたといいます。
父が暗殺され一家に身の危険が迫りロンドンへ共産主義化したポーランドはロンドンに自由主義的な亡命政権をつくっていた)。そしてお洒落で最新流行が行き交うブライトンへ移り住みます。その地で学校に通いはじめたバーバラは、映画館で映画浸けになり映画雑誌にのめり込んでいきます。最初のお気に入りは「水着の女王」エスター・ウィリアムとのこと。英国の上流社会の一員になっていた叔母がバーバラの人生に介入しはじめます。勝手にオペラ歌手にすると決めたり、それが無理だと分かると次は絵の道へ。バーバラはこの頃、「絵」と「服」が大好きだったので、美術のレッスンを受け、家から独立し自分でお金を稼ぐ「衣装デザイナー」になろうと夢みます。大学入学をけしかける叔母の声を退け地元のアートスクールへ。
19歳の時、叔母のすすめで「イブニング・スタンダーソ」紙のデザイン・コンテストに応募。ビーチ・ウェア部門で3000人のなか一位に選ばれる(『麗しのサブリナ』のオードリー・ヘップバーンをイメージしたものだった。この時期はずっとオードリーがバーバラのアイドル。後にグレース・ケリーになる)。現場に出ようとアートスクールを途中で辞めロンドンのスタジオ(ヘレン・ジャーディン・アーティスツ)に売り込み見習いに。「衣装デザイナー」になるにはオートクシュールの組織のなかで何年も耐えなくてはならず忍耐力がもたないとその夢はほおりだし、「ファッション・ドローイング」に集中することを選び、夢中になっていきます。ファッション・ドローイングは上達がすぐに分かり結果もすぐについてきたといいます。ちょうどこの頃にファッションがクチュリエではなくストリートから新たな兆しがあらわれだしていましたが、バーバラはまだ横目で見て感じとる程度でした。
そして小さな頃、もう一つずっと好きで描いてきたことが、「ファッション・ドローイング」のなかに流れ込んできたのです。それは「女の子の顔の絵」を描くことでした(最初は母がバーバラのために描いていた)。「ファッション・ドローイング」には、衣装を素敵に見せるため必ず女の子の全身の絵が描かれますが、とりわけ「顔」の表情が重要だったのです(後に「BIBA」のイメージ・モデルとなった「ステファニー・ファロー」にもそれがあらわれている)。
けれどもバーバラの仕事は「ファッション・ドローイング」から、一気に「BIBA」へと直進していくことはなく、まるでストリートの角を何度も曲がるりつづけるような20代が待っていました。バーバラは広告の仕事から「編集」の仕事に切り換えています。ただ「ファッション・ドローイング」は描きつづけ、フリーランスとして『ホームズ・アンド・ガーデンズ』にはじまり、『ザ・タイムズ』『デイリー・エクスプレス』『ウーマンズ・ミラー』各誌に売り込みながら、グラフィック・イメージで抜きん出ていた『クイーン』誌に照準を合わせ、雑誌上のイラストや写真の使われ方を勉強していったのです。そしてクチュリエのショーを見てスケッチをしたりブティック巡りも仕事の一つとなる一方、婚約と婚約解消、そして6週間の交際で結婚とプライヴェートも慌ただしくなっていきます。広告代理店勤めの夫がある日、服のメールオーダーを考えつき、バーバラは衣装をデザインしはじめます。1963年のことでした。各誌にいろんな服のデザインを載せ注文を待つのです。
この「ポスタル・ブティック」ー郵便注文ブティックの名前を、バーバラはアクティブな妹の名前をとって「BIBA」としました。1件も無かったこともありましたが、背中に丸い穴をくり抜きブリジッド・バルドー風のスカーフを組み合わせたアイデアが当たって予想を遥かに超える注文が舞い込んだのです。この頃、バーバラは、上流社会の人々が関心をもつクチュリエ的なものでなく、「ストリート」にしか関心がなくなっていたのです。バーバラのデザインする衣装は、「ストリート」のリアルなひとたちが着るものだったのです。
バーバラ・フラニッキー「BIBA」のケースをみてもわかるように、「夢」は新たな出会いと気づきとともに、何度も書き換えられています。「BIBA」ブティックに全身全霊で打ち込めるようになったのも、少女の頃に大好きだった「店」「衣装」「顔の絵」のすべてが含まれているためだったといえるでしょう。オープン前後の「BIBA」、それ以降の全盛期の「BIBA」、破綻のことは参照させて頂いた『バーバラ・フラニッキ自伝ーBIBAをつくった女/The Autobiography of Barbara Hulanicki』(長澤均監修 P-Vine Books 2008年刊)にあたってみて下さい。
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BIBAスウィンギン・ロンドン1965-1974
In Biba
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