伝記ステーション   Art Bird Books

あの「夢」はどこからやって来たのだろう?

「遊び」や「いたずら」への情熱が「音楽」に切り替った3歳の出来事。「習う」ことへの強烈な好奇心は最愛の父に認めてもらいたい欲求と結びついた。「作曲職人」だった父への長年の不当な仕打ちへの見返しが、父と息子の気持ちの根底にあった


モーツァルト

▶(1)からの続き:「作曲職人」となった父レオポルド・モーツァルトは、受難曲からオラトリオ、セレナードにトリオ、シンフォニー、劇場音楽に管楽器ソロの協奏曲、ディヴェルティメントなどなど、教会用であれ世俗のものであれ何でもこなしていったようです。これは教会用宗教音楽や歌曲、オペラ、協奏曲・交響曲室内楽曲などなどさまざまなジャンルの作品(700曲以上)を手がけてきたヴォルフガング・アマデウスモーツァルトと二重映しになるほどです。
父レオポルドは1740年から60年頃まで20余年にわたって膨大な数の作曲をしていますが、その作曲は雇主の命あってのもので、必ずしもその仕事に充分満たされていなかったといいます。宮廷楽士となり、宮廷副楽長の座までのぼりつめますが、楽長への昇進は何度も見送られ、野心に満ちていたレオポルドは、次第に副楽長として小さな宮廷オーケストラで演奏することさえ惨めにおもうようになっていったようです。自曲の「農民の結婚式」「そり乗り」が演奏されて以降、レオポルドの曲が演奏される機会はまったく無くなり、1750年代の中頃には生地ザルツブルグでの昇進を諦め、他の地で再び「就活」しだします。

その一方で、音楽教育家として著したヴァイオリン教本(1755年)は多いに受け入れられ、ドイツ国内だけでなく後にフランスやオランダでも翻訳出版されます。が、この音楽教本の2年後以降、音楽教育家としても出版することもなくなります。レオポルド・モーツァルト自己実現すること叶わず、作曲職人としても音楽教育家としても名をなすことはできませんでした。ところがです。この地団駄を踏んでいるような時期、レオポルドはある人物の前では、とてつもない「作曲職人」としし、また驚くべき「音楽教育家」として活動していたのです! ある人物とは? それは息子のヴォルフガング・アマデウスモーツァルトでした。

「小さな宮廷の楽員という、恥ずかしくないまでも限界のある職に甘んじ、数年前には不敬の罪で処罰され、母親からは一銭ももらえず疎外され、そんな貧しい一介のザルツブルクの楽士が、いまやヨーロッパ中にその名を知られ、社会的地位も上がり、ヨーロッパ各国の王族を含む、当時の最も高貴な人士たちと知り合いになったとすれば、それは奇蹟以外の何物でもない。モーツァルトは父に名声と富と身分をもたらす原動力であり、挫折しかけた父の生涯を取り戻す手段であった。彼はレオポルド自身の延長であり、その力の源泉であった」(『モーツァルト』メイナード・ソロモン著 新書館 p.111)

上の一文はどういうことかといえば、モーツァルトに出現した音楽的「奇蹟」は、一介の楽士にしか過ぎなかった父レオポルド・モーツァルトに、ヨーロッパ各国の王族と直接まみえることができるという「奇蹟」をもたらしたということなのです。最もモーツァルトに出現した音楽的「奇蹟」は何も無いところに降ってわいた様に突如あらわれたわけではありません。ヴォルフガング・アマデウス鍵盤楽器に引きつけられるようになったのは3歳の時でした。その時、モーツァルト家でおこなわれていたことは、7歳になる姉ナンネルのための鍵盤楽器の手ほどきでした。手ほどきしていたのは父レオポルドで、父は姉ナンネルのためレッスン用の教材を揃え教本(「ナンネルのノート」)をつくる力の入れようでした。3歳のヴォルフガング・アマデウスは、父と姉がピアノの稽古をしている傍らにずっと座って聴き入るようになり、姉と張りあい父の気を引くように三度の音程を探しては鳴らすのが大好きになっていきます。4歳になった頃に、ヴォルフガング・アマデウスは姉の「ナンネルのノート」をもちいだしメヌエットなどを弾き始めるのです。5歳の誕生日を少し過ぎた頃に現在番号が付けられているK1a、K1bが作曲されます(幼少期の詳細は前出の『モーツァルト』にあたることをお薦めします)
幼少期のこの音楽的環境にくわえ少年ヴォルフガング・アマデウスが、興味をもった「遊び」や「いたずら」に食事すら忘れて<夢中>になってしまう気質と、ものを「習う」という強烈な意欲が「奇蹟」を呼び込んでいったようなのです。少年ヴォルフガング・アマデウスが「音楽」にのめり込みだすと、「遊び」や「いたずら」への情熱はすべて「音楽」に注ぎ込まれ、皆でゲームをしたりする時や部屋から部屋への移動の時ですら「音楽」の伴奏が伴ったといいます。最も幼少期、子供は何に眼をつけ関心をもつようになるのかは、最初は必ずしも家庭環境だけには限らないようです。それはものを学ぼうとする力が生来的に幼児に装備されているからなのです。少年ヴォルフガング・アマデウスの場合、「遊び」や「いたずら」以外、図画と足し算が得意だったということからも推測できるかもしれません。「音楽」が少年ヴォルフガング・アマデウスに奔流となって流れ込むと、使える時間のほとんどが「音楽」に割り当てられていくことになります。以下は姉ナンネルの記録です。

「子供の頃からずっと夜や朝に作曲したり演奏したりするのが好きでした。もし夜の9時にあの子がピアノの前に座ったとすると、12時前には止めさせることはできませんでした。やらせておけば、きっと一晩中でも弾いていたでしょう。朝は6時から9時まで、大体はベッドの中で作曲します…」(『モーツァルト』メイナード・ソロモン著 新書館 p.75)

モーツアルトの手紙 上—その生涯のロマン (岩波文庫 青 504-1)


父レオポルドは教え始めるとすぐに、姉ナンネルと比べても息子ヴォルフガングが抜群のテンポ感覚と異常なスピードと正確さで演奏をマスターしていくことに気づきますが、その「習う」という強烈な意欲を倍増させたのは、深く愛していた父親に認めてもらうことだったといいます(逆に最大の恐怖は父の不興を買うことだった)。そうした正のスパイラルに、父は必要な与えるべきものをアメとムチを使いわけながら次々と繰り出し、少年ヴォルフガング・アマデウスもそれに応えていきます(父に対しての過剰なほどの服従は食べ物が出されても許可がなければ手をつけようとはしなかったほどだった。父は子供たちの才能の育成と同時に、少年期の性格形成に気を配ることも忘れなかったといわれる)。姉ナンネルも少年ヴォルフガングも当時学校に通っていません。文字の読み方から書き方、算数から歴史、地理などを教えたのは父レオポルドでした(ヨーロッパへの演奏旅行中にイタリア語とフランス語と音楽家として必要程度のラテン語は独自にマスター)
そしてヴォルフガング・アマデウス6歳の時、父レオポルドは子供二人を連れてバイエルン選帝候の前で、またリンツやウィーンへと演奏旅行します。この名立たる貴族たち音楽愛好家たちの前での演奏の評判は瞬く間に広がります。

「…私たちはフーガその他の曲を彼に作らせたければ、思いつくままにテーマを彼に与えるだけでいい。彼はただちにそれを展開し、聴いたこともないような変奏を作り、絶えずパッセージを変えて、こちらが望む限りいつまでも弾き続ける。彼は一つのテーマを基にしてフーガを即興で何時間でも弾くとのことで、またこうした即興演奏を彼は大好きなのである」(当時演奏会に出席したヴェネディクト派の神父の言葉/『モーツァルト』メイナード・ソロモン著 新書館

相次ぐ音楽会で少年ヴォルフガング・アマデウスは「天才」と称され、息子の才能を確信した父レオポルド・モーツァルトは、息子のプロモーター活動に徹し始めます。息子の出世と成功こそ、レオポルドが長年受けてきたと感じた不当な仕打ちに対する復讐であり胸のすくような仕返しでした。また同時にモーツァルト家の経済を助け資するものとなっていったのです。「栄光と名誉と金とを獲得し、それによって私たちを助け、ある種の人物たちの侮辱と嘲笑から父を救うのだ」。なんとこれは父レオポルドの言葉ではなく、息子ヴォルフガング・アマデウスの言葉なのです。「神の次はパパ」と語り、父と同一化した息子ヴォルフガングは、モーツァルト家の空気から父の置かれた状況と思いを察していたのです。
長年ヴォルフガング・アマデウスモーツァルトの作品と信じられてきたミサ曲の中に(ミサ・ブレウィス・ハ長調K115など)や新ランバッハ・ト長調、父レオポルドの作品だったことが最近判明したことは、「作曲職人」だった父レオポルド・モーツァルトの才能が優れたものだったことを告げています。スカルラッティC.P.E.バッハソナタを引き継いだレオポルド・モーツァルトのピアノ・ソナタは、「時代に歩調のあった有能な作曲家で、その作品はスタイルと質の点において息子の初期のシンフォニー群に匹敵する」(クリフ・アイゼン評)と高く評価されています。ヴォルフガング・アマデウスモーツァルトの「心の樹」は、まさに父レオポルド・モーツァルトの「心の樹」を抜きに語ることはできないのです。
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